【深掘り解説】田母神氏の「大東亜戦争=聖戦」論は本当か? アジア解放の光と影

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「先の大戦で、日本はアジアの独立を促した。あれは聖戦だったんだ。」

元航空幕僚長である田母神俊雄氏のこの言葉は、今もなお、私たちの歴史観を鋭く問いかけます。彼の主張の核心は、「大東亜戦争は、欧米列強の植民地支配からアジアを解放するための正義の戦いであった」というものです。

この見解は、戦後の日本で主流となった「自虐史観」へのアンチテーゼとして、一部で根強い支持を得ています。しかし、一方で「歴史修正主義だ」という厳しい批判も絶えません。

果たして、この戦争は本当に「聖戦」だったのでしょうか?

この問いに白黒つけるのは、本記事の目的ではありません。ブロガーとして、私たちが目指すのは、田母神氏の主張を一つの「問い」として受け止め、その根拠を深掘りし、光と影の両面から歴史を立体的に捉え直すことです。読者の皆様が、ご自身の頭で考えるための「質の高い材料」を提供します。

1. 田母神氏の主張の核心:「アジア解放」という側面

まず、田母神氏の主張の根幹をなす「アジア解放」の側面を客観的に見ていきましょう。

19世紀後半から20世紀初頭にかけ、アジアのほとんどの地域は欧米列強の植民地でした。

  • イギリス:インド、ビルマ(ミャンマー)、マレーシア、シンガポール
  • フランス:ベトナム、カンボジア、ラオス(仏領インドシナ)
  • オランダ:インドネシア
  • アメリカ:フィリピン

こうした状況下で、日本が掲げた「大東亜共栄圏」構想は、「アジア人によるアジア」というスローガンを伴っていました。日本の軍事行動が、結果として長年アジアを支配してきた欧米勢力を一掃したことは、歴史的な事実です。

開戦当初、日本軍の快進撃は、それまで「無敵」と信じられていた欧米軍の神話を打ち砕きました。この衝撃は、アジア各地の独立運動家たちを大いに勇気づけたと言われています。

田母神氏が引用するタイのククリット・プラモード元首相の発言は有名です。彼はこう述べました。

「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本という母親は、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国が、米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本という母親があったためである」

タイは、形式上日本の同盟国となることで、植民地化を免れた特殊な立場にありました。その指導者からのこの言葉は、「日本のおかげで独立できた」という感謝の念が、一部の国や指導者層に確かに存在したことを示しています。

実際に、インドネシアのスカルノ初代大統領やビルマのアウンサン将軍(アウンサンスーチー氏の父)は、日本の軍政下で独立のための準備を進める機会を得ました。戦争がなければ、彼らの独立はもっと遅れていた可能性は否定できません。

2. 主張の影:「聖戦」という言葉の重み

しかし、物語には必ず別の側面があります。「アジア解放」という光が強ければ強いほど、その影もまた濃くなります。

日本が欧米勢力を追い出した後、その地に訪れたのは、必ずしもバラ色の独立ではありませんでした。多くの地域で、日本は欧米に代わる新たな支配者として君臨します。

  • 資源の収奪:戦争継続のため、占領地から石油やゴム、米などの資源が徹底的に収奪されました。
  • 過酷な労働:泰緬鉄道の建設に代表されるように、多くの現地住民や連合軍捕虜が強制労働に動員され、命を落としました。
  • 文化の強制:皇民化政策として、日本語教育や宮城遥拝などが強制されるケースもありました。

「大東亜共栄圏」の実態は、日本を頂点とする経済的・軍事的なブロックであり、真の意味での対等な共存共栄とはほど遠いものでした。この現実は、「解放者」という日本の自己認識と、被支配側の「新たな侵略者」という認識の間に、埋めがたい溝を生み出しました。

「アジア」と一括りにすることはできません。国ごと、あるいは個人ごとに、日本への評価は大きく異なります。

  • 中国・朝鮮半島:日中戦争から続く長い戦いの中で、甚大な被害を受けました。南京事件などの悲劇を経験した彼らにとって、日本は紛れもなく「侵略者」であり、「聖戦」という言葉は到底受け入れられるものではありません。
  • 東南アジア:ここでも評価は一枚岩ではありません。前述のタイやインドネシアのように、独立の契機として評価する声がある一方で、フィリピンではマニラの市街戦で多くの民間人が犠牲になりました。日本軍の占領統治が過酷であった記憶も、色濃く残っています。

ククリット元首相の言葉をアジア全体の総意と捉えるのは、あまりに単純化しすぎていると言わざるを得ません。

「結果的にアジアの独立を促した」という見方は、一つの事実かもしれません。しかし、その「結果」に至る過程で、軍人・民間人合わせて300万人以上もの日本人が命を落とし、アジア全体では2000万人以上とも言われる人々が犠牲になりました。

この膨大な犠牲を払い、多くの国に深い傷跡を残した戦争を、果たして「聖なる戦い」と美化することは許されるのでしょうか。目的が崇高であったとしても(その目的自体に議論の余地がありますが)、その手段がもたらした悲劇を無視して歴史を語ることはできません。

【みんなの声】このテーマ、あなたはどう思う?

この複雑なテーマについて、街で聞こえてきそうな様々な声を集めてみました。

Aさん(70代・男性)「私の父は、お国のため、アジアの平和のためと信じて戦地に赴きました。戦後は何もかもが悪かったと言われ、父の信じたものが全否定されたようで辛かった。田母神さんのような意見を聞くと、父たちの世代の名誉が少しでも回復されるような気がして、ホッとしますね。少なくとも、白人支配からアジアを守るという気概はあったはずです。」

Bさん(20代・女性)「『聖戦』なんて言葉、ありえないです。学校で、日本がアジアの国々にしたことを学びました。慰安婦問題や強制連行の問題だってある。自分たちの都合のいい部分だけ切り取って『美談』にするのは、被害を受けた国の人々に対して失礼すぎる。歴史修正主義って、こういうことを言うんだと思います。」

Cさん(40代・会社員)「どっちもどっち、というか、単純な話じゃないですよね。欧米の植民地支配が酷かったのは事実だし、日本がそれを壊した功績もゼロではない。でも、日本がやったことも結局は同じような支配だった。結果的に独立につながったのは、日本のおかげというより、戦争で欧米も日本も疲弊して、世界の秩序が再編されたから、という側面が大きいのでは?『聖戦』でも『絶対悪』でもなく、もっと複雑なものとして捉えるべきだと思います。」

Dさん(30代・留学生)「私の国(東南アジア)では、祖父母の世代は日本に複雑な感情を持っています。日本軍は厳しかったけど、教育や規律を教えてくれたという人もいれば、家族を殺されたという人もいる。ただ、日本が来たことで『白人には勝てない』という空気が変わったのは確かです。歴史は一面だけでは語れない、ということだと思います。」

まとめ:歴史を「レンズ」として未来を照らす

田母神俊雄氏の「大東亜戦争=聖戦」論。

その主張を丹念に見ていくと、「アジア解放」という側面が確かに存在したこと、しかしそれは「日本の新たな支配」という影と不可分であったことがわかります。そして、その評価は国や立場によって大きく異なる、極めて多面的なものであることも見えてきます。

ブロガーとして、私が最後に伝えたいこと。それは、歴史を「正解か不正解か」の二択で裁くのではなく、多様な視点を知るための「レンズ」として使うことの重要性です。

  • なぜ田母神氏のような主張が生まれるのか?(戦後の価値観への反発)
  • なぜ「聖戦」という言葉に強い反発が起きるのか?(被害の記憶)
  • なぜアジアの中でも評価が分かれるのか?(各国の歴史的経緯)

これらの「なぜ」を考えることこそが、歴史から学ぶということです。

「聖戦」という一つの言葉で、あの戦争のすべてを覆い尽くすことはできません。それは、300万人の日本人の死も、2000万人のアジアの人々の犠牲も、あまりに単純化してしまう危険な行為です。

過去の光と影の両方を直視し、それぞれの立場からの声に謙虚に耳を傾ける。その上で、未来の私たちがどうあるべきかを考える。その知的で誠実な営みこそが、真の意味での歴史との向き合い方ではないでしょうか。